2019年10月09日
◎沖縄県民となって10年(沖縄の光と影)
こんにちわ。自称、石垣島自然愛好会!、「ゆんたくガーデン」園長琉球ジョーです
。
今は仕事の研修で那覇にいます。当記事は事前に書いたものをオプションで投稿しています。
ついに沖縄県に移住して10年の節目を迎えました。感慨深い10年です。初めて沖縄本島に上陸したのは1975年でした。本部(もとぶ)で開催された沖縄国際海洋博へのツアーに参加してから44年が経ちました。あの時から、どれほど沖縄に通ったことでしょう・・・。

沖縄に憧れいつかは移住しようと思っていましたが、決心させたのは四十路を越えて、数年経ったあの日、店で倒れたからだと言う気がします。それがなければ人生の1/6を沖縄県民として過ごすことは出来なかったでしょうね。そう運命を決めた8月4日でした。

それでも沖縄への移住には約10年の時がかかりました。小さな町の「町興し」を始めてしまい、それを完結させたい思いがありました。刻は熟し、町の賑わいは復活しました。最後に1000人イベントを行いました。直後は燃え尽き症候群のようになっていました。

都会での生活と深夜暮らしの生活に僕は疲れ果てていました。ところが思わぬトラブルに見舞われ、移住に用意していた資金は店の補修と大規模な下水工事のために一瞬で消えてしまいました。そんな時、友人が湘南での海の家への運営の誘いが舞い込みました。

逗子での海の家の生活は、沖縄への思いを余計に強くさせました。毎朝6時に起きてビーチクリーンを行います。これが心地よいこと極まりないので、是非沖縄に移住した折にはBC活動をしたいと思いました。海辺に暮らして環境問題も凄く考える期間ともなりました。


貴方が沖縄旅行帰りに泣きたい人だったら、沖縄に戻されます。僕は今は図々しく「前世はうちなんちゅ」ですと言ってます(笑)。海の家が終わりと決まった頃、知人からの一本の電話で僕は殆ど軍資金なしで北谷(ちゃたん)に近いシェアハウスへと飛ぶことになりました。

沖縄県民になるに当たって、決めたことがありました。いえ、ささやかな話しなのです。東京時代の生活が荒れていなかったと言ったら嘘になります。負債もまだありましたが、夜の仕事は卒業したいという足掻きが心にありました。もし移住することになったら・・・。

宜野湾のシェアハウスでの生活は同居人とのセッションが中々大変でしたが、都会に「神経質」を殆ど投げ捨てて、「鈍感力」を毎日育てて乗り越えました。そうなんです。自分で決めた移住っていうのは人生の価値観を変える旅なのです!。過去から脱却しましょう。

宜野湾生活は母親の認知症発症で一端打ち切りとなりました。その後母親との折衝を3ヶ月続けて、終の棲家と考えていた「石垣島」へ親子と猫2匹の本格的移住となりました。もし認知症介護が都会だったら僕はきっとストレスで狂っていたでしょう。環境は大事です。

初め不安そうだった母親もデイサービスですぐに友達が出来て病気の進行も押さえられました。前にもお伝えしましたが島の介護施設は暖かいです。まだ先のことと思っている若い方も沖縄の施設のことを少し頭の片隅に覚えておいて損はないと思います。

都会でしてこなかった社会貢献、自然保護や地域貢献などで大好きな沖縄へ恩返しをしたかったのです。不思議なことに今や行政連携で沖縄への移住の仕事までをするようになっています。決めていた訳ではありません。ブレなかった思いが恩恵をくれたようです。

ただ、この10年の間に、那覇に関わらず八重山も観光と開発による問題が起こっています。新空港が出来、旅行客が100万人を越え、環境は急速に変わりつつあります。ゆっくり確かな発展ではなく、乱開発が起こっています。今は言葉でフォローしか出来ませんが・・・。

一部の島の方は利便と利益を求めています。至極普通の願望です。でも、便利を追求し孤立してゆく都会で見て来た者の警鐘も必要だと感じています。これから移住してくる皆さんへお願いです。是非、豊かな自然・文化を次世代に残せる方法を一緒に考えて下さい。
----------------------------------------------------------------------------------- 
-----------------------------------------------------------------------------------

今は仕事の研修で那覇にいます。当記事は事前に書いたものをオプションで投稿しています。
沖縄に移住して10年が経ちました!。
ついに沖縄県に移住して10年の節目を迎えました。感慨深い10年です。初めて沖縄本島に上陸したのは1975年でした。本部(もとぶ)で開催された沖縄国際海洋博へのツアーに参加してから44年が経ちました。あの時から、どれほど沖縄に通ったことでしょう・・・。
42歳で心筋梗塞で店で倒れる

沖縄に憧れいつかは移住しようと思っていましたが、決心させたのは四十路を越えて、数年経ったあの日、店で倒れたからだと言う気がします。それがなければ人生の1/6を沖縄県民として過ごすことは出来なかったでしょうね。そう運命を決めた8月4日でした。
自分で卒業のイベントを

それでも沖縄への移住には約10年の時がかかりました。小さな町の「町興し」を始めてしまい、それを完結させたい思いがありました。刻は熟し、町の賑わいは復活しました。最後に1000人イベントを行いました。直後は燃え尽き症候群のようになっていました。
同業の友人に誘われるまま逗子に
都会での生活と深夜暮らしの生活に僕は疲れ果てていました。ところが思わぬトラブルに見舞われ、移住に用意していた資金は店の補修と大規模な下水工事のために一瞬で消えてしまいました。そんな時、友人が湘南での海の家への運営の誘いが舞い込みました。
海辺に住んで自然を目の当たりに
逗子での海の家の生活は、沖縄への思いを余計に強くさせました。毎朝6時に起きてビーチクリーンを行います。これが心地よいこと極まりないので、是非沖縄に移住した折にはBC活動をしたいと思いました。海辺に暮らして環境問題も凄く考える期間ともなりました。
そして引き寄せの電話が!
貴方が沖縄旅行帰りに泣きたい人だったら、沖縄に戻されます。僕は今は図々しく「前世はうちなんちゅ」ですと言ってます(笑)。海の家が終わりと決まった頃、知人からの一本の電話で僕は殆ど軍資金なしで北谷(ちゃたん)に近いシェアハウスへと飛ぶことになりました。
都会とは違う気持ちで過ごしたい・・・

沖縄県民になるに当たって、決めたことがありました。いえ、ささやかな話しなのです。東京時代の生活が荒れていなかったと言ったら嘘になります。負債もまだありましたが、夜の仕事は卒業したいという足掻きが心にありました。もし移住することになったら・・・。
生活を思い切り変えよう!

宜野湾のシェアハウスでの生活は同居人とのセッションが中々大変でしたが、都会に「神経質」を殆ど投げ捨てて、「鈍感力」を毎日育てて乗り越えました。そうなんです。自分で決めた移住っていうのは人生の価値観を変える旅なのです!。過去から脱却しましょう。
石垣島で介護生活が始まる!

宜野湾生活は母親の認知症発症で一端打ち切りとなりました。その後母親との折衝を3ヶ月続けて、終の棲家と考えていた「石垣島」へ親子と猫2匹の本格的移住となりました。もし認知症介護が都会だったら僕はきっとストレスで狂っていたでしょう。環境は大事です。
そして7年の介護生活を乗り越えました
初め不安そうだった母親もデイサービスですぐに友達が出来て病気の進行も押さえられました。前にもお伝えしましたが島の介護施設は暖かいです。まだ先のことと思っている若い方も沖縄の施設のことを少し頭の片隅に覚えておいて損はないと思います。
憧れだった生き方をしています

都会でしてこなかった社会貢献、自然保護や地域貢献などで大好きな沖縄へ恩返しをしたかったのです。不思議なことに今や行政連携で沖縄への移住の仕事までをするようになっています。決めていた訳ではありません。ブレなかった思いが恩恵をくれたようです。
急激な変化に懸念があります

ただ、この10年の間に、那覇に関わらず八重山も観光と開発による問題が起こっています。新空港が出来、旅行客が100万人を越え、環境は急速に変わりつつあります。ゆっくり確かな発展ではなく、乱開発が起こっています。今は言葉でフォローしか出来ませんが・・・。
手を取り合えれば幸いです

一部の島の方は利便と利益を求めています。至極普通の願望です。でも、便利を追求し孤立してゆく都会で見て来た者の警鐘も必要だと感じています。これから移住してくる皆さんへお願いです。是非、豊かな自然・文化を次世代に残せる方法を一緒に考えて下さい。
HP :旅行・移住の仲間作り(^^)/はゆんたくガーデン
