2018年06月12日
◎ゆんたくオバァ・ナミ子のお別れ
すいません。このブログは園主の思い出として書き残しているとご理解下さい。長文、かつ「褻の話」となります。ご気分にそぐわない折りはスルーして頂ければと思います。ガーデンの面々に思いを寄せて頂ける方はご拝読頂ければ幸いです。また今後も「ゆんたくスタッフ」につきましては全てご紹介と、お別れを書かせて頂くことをご容赦下さい。
とうとう「ゆんたくガーデン」からも、人とのお別れのご案内となりました。当園の名物?オバァ(園主の母)が遂に大往生を遂げました。石垣移住以前、そして以降に関わった皆様、また当園の会員さまに、これまでのご厚誼に対し心より御礼を申し上げます。ありがとうございました。
簡単に履歴を紹介させて頂きます。旧姓は下野、生まれは鹿児島県、今の南九州市頴娃(えい)町石垣の海のそばで生まれたのでナミ子(以下、ナミバァ)と名付けられました。石垣に生まれ石垣で亡くなりました。これも何かの縁でしょうね。女ばかり5人姉妹の真ん中で、身長は最長時、164cmありました。大正生まれとしては大女でした。
家政女学校高等科をを卒業後、18歳から27歳まで鹿児島市議会事務局で働いておりました。この時に和文タイプを習得。当時思いを寄せていた市議が結婚することになり、傷心がきっかけで東京に出て来ました。当初は鎌倉の知人宅から銀座みゆき通りにあったブテイック&カフェの店ジュリアンソレル(現在のシャネル)まで経理担当で通っていました。
その店でバーテンダーをしていた7歳年下の父と巡り会い、一緒になりました。寮住まいだった父は高円寺のアパートに居を移し、そこでナミバァと暮らしました。ナミバァは子供を6人下ろして、園主はラッキーセブンというこで、じゃなくて恐らくもう産めなくなるということで、この世に生まれ出たことを高校時代に聞きました。
そして二人は新宿駅前で小さなBarを経営していましたが、憧れの銀座に店を持つべく、高度成長期の波に乗り、大分稼いだので、銀座の万年筆屋の土地を買うことにしました。ところが、万年筆屋は実は倒産寸前で、支払った大枚の手付けは全て消えてしまいました。そこから暫く一家は困窮を極め、園主は鹿児島の叔母の家に預けられました。
それでも、高度成長期はまだ続いていたので何とか気を取り戻して、新宿区役所と花園神社に挟まれた木造のもバラック長屋へと移転します。暫くしてその二階も住まいとして買い取り、一家は一時期、そこで暮らします。(現在は、通称新宿ゴールデン街と呼ばれる一画です)実家は火事の影響のため昨年手放しました。
やがてナミバァと父は商売の方向性の違いから店を分けました。元々明るい性格でしたが、店をBarから女性を雇ったスナック営業に変えてからは更に店は繁盛していたようです。しかし、この頃父は郷里長崎での被爆の影響か?、躁鬱病が進行し自分の店は開けられず殆どナミバァのヒモ状態でした(^^ゞ。
そして躁鬱病の果てに父が平成元年に他界してからは、ナミバァの大暴れが始まりました(笑)。兎に角、お酒が大好きでお客さんと飲みまくっていましたが、株式投資だけでも1年間で1千万稼いでいたようです。まぁ今からいうと殆どインサイダーに近いかも知れませんが(^^ゞ、昔はもうちょっと色々なことが緩やかでしたからね(笑)。
一人息子である園主としましては、正直、今は悲しみよりも7年の介護から解放され、一息と言った気持ちです。親の介護に関われたことには、価値があると思いつつ、8年前の認知症発症後はADHDとアスペルガーの悪い面が出る時も多く、かなり参りました。
当のナミバァ自身は「わたしは誰の介護もしたこともないし、身内の死に目を看取ったこともないもんね~」とのんきに言い放って、結構僕を憐れんでくれました(笑)。それにしても、94歳・・・、石垣に来て骨折、心疾患で5度も入院しましたが、移住前に簡保を解約していたので、いやはや入院費の工面も大変やさ。いやさ、ちばりすぎ~。
この2年ではナミバァは3回も心不全に陥り、僕の覚悟も相当出来上がっておりました。最後の入院から死の間際までの2週間は欠かさず見舞いに行きましたが、顔を見ながら思うのは「幸せな人生だったのか?、一番楽しかったことは何だったんだろうな?」ということばかりでした。
今から思うと移住には大変な苦労がありましたが、デイサービスと東京時代から看て頂いていた内科のT先生(なんと偶然にも同じ頃に石垣島の病院の先生に!)、そして猫達のお陰で、認知症自体はかなり改善されていたと思います。連れて来る数日前は実際は動けなくなり死にかけていました。移住後7年も生きたのは奇跡に近いです。
マンションから古民家に移った時は、正直「こんな田舎くさい家が好きなの?」と大分ぶつぶつ言っていましたが、数年も住むと花の沢山ある庭付きの家に住めたことを、とても喜んでくれました。家で看取れなかったのが残念ですが、先生がには最後まできっちり看て頂きました。
最後は病院で延命措置は一切しませんでしたが、静かに青空の下、息を引き取りました。この4日後に1番したの妹さんも逝きました。初七日は家族だけで済ませ、7月に母の生まれ故郷である鹿児島の海に海洋散骨して参ります。重ね重ね生前のご厚誼に感謝致します。そして賑やかなのが大好きだったナミバァからのお願いです。
弔文告知に誤りがありました。故妻→故母、喪主夫→喪主長男です。新聞社のミスではなく、こちらの校正確認不足です。急いでおりましたので見落としてしまいました。6月24日(日)は午後2時~6時になります。
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HP :旅行・移住の仲間作り(^^)/はゆんたくガーデン
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2018年5月27日(日)9時12分逝去
とうとう「ゆんたくガーデン」からも、人とのお別れのご案内となりました。当園の名物?オバァ(園主の母)が遂に大往生を遂げました。石垣移住以前、そして以降に関わった皆様、また当園の会員さまに、これまでのご厚誼に対し心より御礼を申し上げます。ありがとうございました。
鹿児島の5人姉妹の真ん中でした(中心)
簡単に履歴を紹介させて頂きます。旧姓は下野、生まれは鹿児島県、今の南九州市頴娃(えい)町石垣の海のそばで生まれたのでナミ子(以下、ナミバァ)と名付けられました。石垣に生まれ石垣で亡くなりました。これも何かの縁でしょうね。女ばかり5人姉妹の真ん中で、身長は最長時、164cmありました。大正生まれとしては大女でした。
家政女学院時代と思われる写真(中心)
家政女学校高等科をを卒業後、18歳から27歳まで鹿児島市議会事務局で働いておりました。この時に和文タイプを習得。当時思いを寄せていた市議が結婚することになり、傷心がきっかけで東京に出て来ました。当初は鎌倉の知人宅から銀座みゆき通りにあったブテイック&カフェの店ジュリアンソレル(現在のシャネル)まで経理担当で通っていました。
一緒になった頃の7歳下の父とナミバァ
その店でバーテンダーをしていた7歳年下の父と巡り会い、一緒になりました。寮住まいだった父は高円寺のアパートに居を移し、そこでナミバァと暮らしました。ナミバァは子供を6人下ろして、園主はラッキーセブンというこで、じゃなくて恐らくもう産めなくなるということで、この世に生まれ出たことを高校時代に聞きました。
最初は「Barリド」を開店させました
そして二人は新宿駅前で小さなBarを経営していましたが、憧れの銀座に店を持つべく、高度成長期の波に乗り、大分稼いだので、銀座の万年筆屋の土地を買うことにしました。ところが、万年筆屋は実は倒産寸前で、支払った大枚の手付けは全て消えてしまいました。そこから暫く一家は困窮を極め、園主は鹿児島の叔母の家に預けられました。
S36.2.25 バーじゅりあん・ それる開店
園主が小学生頃の旅行先での写真
それでも、高度成長期はまだ続いていたので何とか気を取り戻して、新宿区役所と花園神社に挟まれた木造のもバラック長屋へと移転します。暫くしてその二階も住まいとして買い取り、一家は一時期、そこで暮らします。(現在は、通称新宿ゴールデン街と呼ばれる一画です)実家は火事の影響のため昨年手放しました。
59歳当時のナミバァ元気で明るい
やがてナミバァと父は商売の方向性の違いから店を分けました。元々明るい性格でしたが、店をBarから女性を雇ったスナック営業に変えてからは更に店は繁盛していたようです。しかし、この頃父は郷里長崎での被爆の影響か?、躁鬱病が進行し自分の店は開けられず殆どナミバァのヒモ状態でした(^^ゞ。
旅行が楽しみで海外までよく行ってました
そして躁鬱病の果てに父が平成元年に他界してからは、ナミバァの大暴れが始まりました(笑)。兎に角、お酒が大好きでお客さんと飲みまくっていましたが、株式投資だけでも1年間で1千万稼いでいたようです。まぁ今からいうと殆どインサイダーに近いかも知れませんが(^^ゞ、昔はもうちょっと色々なことが緩やかでしたからね(笑)。
独り暮らしで認知症になったナミバァを連れ石垣島へ
マスミとノアールも一緒
一人息子である園主としましては、正直、今は悲しみよりも7年の介護から解放され、一息と言った気持ちです。親の介護に関われたことには、価値があると思いつつ、8年前の認知症発症後はADHDとアスペルガーの悪い面が出る時も多く、かなり参りました。
石垣のデイサービスですぐに親友が出来た
当のナミバァ自身は「わたしは誰の介護もしたこともないし、身内の死に目を看取ったこともないもんね~」とのんきに言い放って、結構僕を憐れんでくれました(笑)。それにしても、94歳・・・、石垣に来て骨折、心疾患で5度も入院しましたが、移住前に簡保を解約していたので、いやはや入院費の工面も大変やさ。いやさ、ちばりすぎ~。
ゆりが浜の皆さん大変お世話になりました
この2年ではナミバァは3回も心不全に陥り、僕の覚悟も相当出来上がっておりました。最後の入院から死の間際までの2週間は欠かさず見舞いに行きましたが、顔を見ながら思うのは「幸せな人生だったのか?、一番楽しかったことは何だったんだろうな?」ということばかりでした。
ドライブにも連れて行ってもらったんだね
90歳祝い「焼き肉・大」に連れてゆきました
今から思うと移住には大変な苦労がありましたが、デイサービスと東京時代から看て頂いていた内科のT先生(なんと偶然にも同じ頃に石垣島の病院の先生に!)、そして猫達のお陰で、認知症自体はかなり改善されていたと思います。連れて来る数日前は実際は動けなくなり死にかけていました。移住後7年も生きたのは奇跡に近いです。
我が古民家のお隣のボイフレンドTさんと
マンションから古民家に移った時は、正直「こんな田舎くさい家が好きなの?」と大分ぶつぶつ言っていましたが、数年も住むと花の沢山ある庭付きの家に住めたことを、とても喜んでくれました。家で看取れなかったのが残念ですが、先生がには最後まできっちり看て頂きました。
はい長い間お疲れ様でした
最後は病院で延命措置は一切しませんでしたが、静かに青空の下、息を引き取りました。この4日後に1番したの妹さんも逝きました。初七日は家族だけで済ませ、7月に母の生まれ故郷である鹿児島の海に海洋散骨して参ります。重ね重ね生前のご厚誼に感謝致します。そして賑やかなのが大好きだったナミバァからのお願いです。
お時間があれば是非足を運んで下さい
弔文告知に誤りがありました。故妻→故母、喪主夫→喪主長男です。新聞社のミスではなく、こちらの校正確認不足です。急いでおりましたので見落としてしまいました。6月24日(日)は午後2時~6時になります。
HP :旅行・移住の仲間作り(^^)/はゆんたくガーデン
Posted by 琉球ジョー at 14:49
│ゆんたくスタッフ